- 第36回 上田柳町の「亀齢」という地酒を飲むと、10年前、思いがけない訃報に接した親友を思い出す。お酒も、本も、仕事も、まことに波長があった。たくさんの未来を重ねて生きていきたいかけがえのない一人だったのだが…。
- (株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫
先日、仕事で久しぶりに上田市柳町に行った。5、6年ぶりの柳町は、すっかり景観が整備され、江戸時代にタイムスリップしたような家並みが続く。ちょっと時間があったので、柳町の名店で知られる、ルヴァンと岡崎酒造に立ち寄った。
ルヴァンは、パン好きには有名なお店で、天然酵母で丁寧なパン作りをしている。値段はちょっと高いが、中世のフランスの農夫たちは、きっと、こんなパンを食べていたのだろうと思わせるような、素朴で滋味あふれる逸品だ。店舗も、隣接する岡崎酒造所有の、200年も経つような古い木造づくりの蔵をそのまま、活用している。
そのルヴァンの大家さんでもある岡崎酒造の造るお酒には、ある人物を介した、懐かしくそしてとても無念な思い出がある。
その人の名は、飯島俊夫さんという。彼は、私が東京から郷里にもどり今の会社に入社した30年ほど前、私より、半年後に入社してきて出逢った。「新参者」同士の境遇や、広告関係業界出身ということ、そして何より、本やお酒の趣味が同じだったことがあり、すぐに仲良くなった。もう一人、私より早く入社していた営業マンと飯島さんと私の3人は、どういうわけかとても気の合う友人となり、その後、それぞれ別々の会社で働くようになっても、お付き合いは長く続いた。
飯島さんは、大学卒業後、東京のPR代理店で働いていた。PR(パブリックリレーション)と広告(アドバタイジング)の違いを教わった人でもある。今、大問題になっている原発について、国も電力会社もその必要性をPR専門会社に依頼して盛んにPRした時代であった。飯島さんから、東京時代は、福島への出張が多かったと聞いたことを覚えている。彼が生きていれば、今の状況をどう思うだろうか。
同僚としてのお付き合いは、2年ほどで終わり、飯島さんは、松本に本社のあった大手スーパーの販促課長として、転職していった。以来、さすがに飲む機会は、激減したが、それでも、年に2、3回は長野と松本と交互に居酒屋で出逢い、互いの状況報告をし合い、好きな本の話で時間を忘れた。
飯島さんは、故郷が上田市ということもあり、地元柳町の岡崎酒造の「亀齢」がお気に入りだった。どこで飲んでも、居酒屋に入ると、まず「亀齢」があるかどうか聞いていた。あまり大きな酒造会社ではないので、さすがに上田以外では、置いているお店は少なかったが、たまに店主がありますよ、というと、こぼれるばかりの笑顔で、「それ頂戴」といって喜んでいた。
平成11年秋、突然、彼の訃報を知った。その2、3年前に、上田で飲んだとき、実は、内臓をこわし、手術をしたと打ち明けてくれた。その後、数回飲んでいたが、お酒は控え気味だった。そして、唐突に亡くなったという知らせを受けたのだった。すでに、お葬式は終わっているということで、上田駅近くのご実家に焼香にお伺いした。お宅では、ご母堂と妹さんが、迎えてくれた。お二人から、闘病中のお話をお聞きした。「兄は、よく松井さんとの思いでを話していました」という。亡くなる半年ほど前、一人では歩けなかった飯島さんを車いすにのせ、妹さんが長野駅前の平安堂に連れて行った際、「松井さんに連絡しようかどうか迷っていた様子でした」ともいう。万事抑制の聞いたお人柄の飯島さんが、妹さんに無理をいい、車椅子にのり、上田から県内で一番大きな本屋に出かけてきたという。本好きな飯島さんの気持ちが痛いほどわかり、涙がこぼれた。
お焼香にお伺いしてからしばらくして、妹さんが、私の勤務先を訪ねてきてくれた。「兄が好きだったお酒です。いっしょに飲んでやってください」と、「亀齢」を持ってきてくれた。その夜、飯島さんを偲んで、一人「亀齢」を飲んだ。飯島さんとのとても濃い十数年の歳月を思い出し、生きていてくれたら、どんなにたくさんの、楽しい未来を重ねていくことができたことか、と無念の思いが果てなくこみ上げた。
飯島さんは、50代半ばで旅たった。私はすでにその年齢大きく超えた。
5月に連休には、もう一人の友人といっしょに、墓参りにいくつもりだ。飯島さんが好きだったハイライトと「亀齢」をもって…
平成23年4月28日