キャリアの隠れ家
第19回 旧望月町にある「YUSHI CAFE」は、昔懐かしいマランツがジャズギターを奏で、恩人の遺稿集に出会えた珠玉の隠れ家だった
隠れ家の条件の一つは、わかりにくい場所になければいけない。そんな意味で、「YUSHI CAFE」は、まさに隠れ家の名にふさわしいカフェだ。
いまは佐久市になってしまった旧望月町の、国道142号線からほんの少し横道に入った場所だけれど、2度、3度と、町内の方にお聞きして、ようやくたどり着いた。
オーナーのご実家を改造してカフェにしたという、まるで向田邦子の小説に出てきそうな民家に入って、最初に私が目にしたのは、昔懐かしいオーディオ機器だ。アンプとチューナーが並ぶそのブランドは、マランツ。私の世代には、垂涎のブランドだ。オーナーがマニアかと思いお聞きすると、常連のお客様から、借りているものだとか。
マランツ。私が、35年も前、広告制作会社のコピーライターの駆け出しのころ、マランツは、重要なクライアントの一つで、先輩が、とてもかっこいいコピーを書き続けていた。私も将来、あの人のようなコピーライターになりたい、と目標にし、毎日毎日、深夜まで「修行」をしていた時代…。
ちょうどお昼どきだったので、トーストに卵のトッピングと、ウインナーコーヒーを頼んだ。トーストは、素材から調理まで、作り手の心が口の中に、じっくりと広がるおいしさだ。「母と私で育てた小麦で、妻が焼いています」。誠実そうなオーナーが、さりげなく説明してくれる。
ゆっくりと食事とコーヒーを楽しみながら、店内にいくつかある書棚を巡ってみた。そこに、思いがけず、私の恩人の一人である新津利通さんの一周忌に出版された追悼集『詩信 夢のようでも』を見つけた。その隣に、茨木のり子の『倚りかからず』(筑摩書房)があった。
マランツがドライブするグルーヴィなジャズギターに包まれ、新津さんの遺稿集や茨木のり子の詩集をめくり、疲れた目を縁側から庭に向けると、遠く20代の、人間関係の息苦しさや自分の能力への不安感に震えていた日々が、思い出されてきた。
茨木のり子の詩にある「~倚りかかるとしたら それは 椅子の背もたれだけ」、そんな心境に、どうにか近づいてこれたとしたら、それは未熟な私をここまで育て、導いてくれた多くの人たちのおかげなのだと、つくづくと思う。そしてこの今、あわただしい毎日を支えてくれる仕事仲間に感謝する時間を持つこともできた。
忘れてはいけない大切なことを思い出させてくれる、そんな隠れ家に出会えたことに感謝しよう。
平成22年7月 梅雨明けの休日に