- 第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が、かけがえのない大切な学びの時間に変わった日を思い出す。そこには、恩師の厳しいお導きがあった。
- (株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫
まだ新幹線が開通していない時代、東京への出張は、片道3時間ほどかかった。その間、私はまず売店でいわゆる大衆向けの週刊誌を数冊買い、それを読み終わってもまだ残った時間は、惰眠にあてるのが常だった。
ある時、勤務先の清水栄一社長(当時)と偶然同じ車両になった。どうやら同じ会議にでるためのご出張であったようだった。たぶんトイレに立たれたと思われる栄一社長が、週刊誌を読みふけっていた私の横を、早足に通りぬけられた。社長に気づいた私は、驚いて立ち上がりご挨拶をしたが、栄一社長は、ニコリともしないまま、ご自分の席に戻られた。どうしたのだろう、と不可解な思いのままでいたが、翌日、会社に出社して、その理由がすぐにわかった。
「社長が、お呼びですよ」という声で、恐る恐る社長室に入る私の顔を見るなり、穏やかな表情ではあったが、こうおっしゃった。「たとえ汽車の中とはいえ、もうちょっと、ちゃんとした本を読みなさい」。そして、「これ、おもしろいよ…」とおっしゃり数冊の本を差し出された。私は、顔から火がでるような恥ずかしい思いをし、お礼も上の空で、逃げるように社長室を退散した。「そうか、あの時の社長の不機嫌さは、私が週刊誌を読んでいたからなのか…」と、自分の机に戻りひと心地ついてから、ようやく納得した。お借りした本のタイトルは思い出せないが、ヨーロッパの歴史に関わる本であったように思う。
栄一会長は、ヨーロッパ、とくにギリシャ文明に深いご見識をお持ちであった。また、ときに、心おきない場所では、ドイツ語の歌を口ずさんでおられた。「信州百名山」の「9山 天狗原山」の章に、「~山頂に夕べを迎えるのは、山登りのすべての時間のうちで、私の一番好きな時である。~」とある。そして、ドイツ民謡をご自分で訳されて歌ったと書かれている。「~再び夕べになりにけり。野山はしじまに、とざされぬ」…。
平成6年、会長の一周忌にあたり追悼集を発行することになった。編集を担当させていただいた私は、そのタイトルを、会長が残された筆跡を集めて、「野山は しじまに」とした。
さて、これから残された人生の貴重な時間、どんな「ちゃんとした」本を読んで過ごそうか。毎月、10冊程度は本を買うが、最後まで読み終わるのは、2、3冊しかない。残った本は、現役を退いたあとの「お楽しみ」にとっておこうと買っているのだが、今のペースでは、ずいぶんと長生きしなければ、読み残してしまうかもしれない。そして、再会した栄一会長に、また叱られてしまうのかな…。
平成23年3月