home  → キャリアの隠れ家  → 第29回  東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が、かけがえのない大切な学びの時間に変わった日を思い出す。そこには、恩師の厳しいお導きがあった。


キャリアの隠れ家

→ 第1回 東山魁夷館

→ 第2回 仕事の苦労を仲間と語り合う時間と空間、それが僕の隠れ家

→ 第3回 戸隠神社奥社参道

→ 第4回 山田温泉 “舞の道”

→ 第5回 小県郡浅科村

→ 第6回 「花屋」(おぶせフローラルガーデン)

→ 第7回 東京芸術大学大学美術館

→ 第8回 鬼のいない里、鬼無里

→ 第9回 須坂市浄運寺

→ 第10回 須坂市須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

→ 第11回 松本民芸館

→ 第12回 古書店

→ 第13回 映画館

→ 第14回 「矢沢永吉ファンの隠れ家」ダイヤモンドムーン

→ 第15回 おいしい珈琲が飲める隠れ家 丸山珈琲小諸店

→ 第16回 全国の高校の同窓会ノートがある、東京新橋 有薫

→ 第17回 白洲次郎・正子の隠れ家 武相荘

→ 第18回 セカンドキャリアの隠れ家、「ギャラリーウスイ」

→ 第19回 旧望月町にある「YUSHI CAFE」は、昔懐かしいマランツが…

→ 第20回 東山魁夷画伯の墓前で手を合わせる…

→ 第21回 工業の町坂城にある、おししいジャムと紅茶が楽しめるジャム工場直営のアップルファーム。

→ 第22回 ようやく秋めいた9月の休日、信濃33番観音霊場…

→ 第23回 車中は、一人きりの「素」になれる貴重な時間…

→ 第24回 ライブコンサートは、仕事のストレスから「断捨離」して…

→ 第25回 新たな年の初めには、書初めがよく似合う…

→ 第26回 カウンターで一人、おいしい日本酒が堪能できるお店、「ながい」。

→ 第27回 酒器は、銘酒に欠かせない最高の小道具だと思う。

→ 第28回 「山は私を育てた学校である」と遺した恩人は…

→ 第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が…

→ 第30回 上田市の無言館に、生きることを許されなかった画学生たちの叫び声を、聴きに行った…

→ 第31回 小布施町の「古陶磁コレクション了庵」で、おいしいコーヒーと庵主の話に時間を忘れる…

→ 第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の…

→ 第33回 かつて「鉄腕稲尾」に憧れた野球少年が、今では、孫といっしょにバッティングセンターに通う…

→ 第34回 最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても…

→ 第35回 NHK教育テレビには、視聴率優先の発想では実現できそうもない番組があって、今では、私のキャリアを磨く貴重な…

→ 第36回 上田柳町の「亀齢」という地酒を飲むと、10年前、思いがけない訃報に接した親友を思い出す。お酒も、本も、仕事も…

→ 第37回 また一つ、幸せなお店との出逢い。3代続いた老舗のとんかつ屋「一とく」の店主は…

→ 第38回 5月の連休を利用して、金沢に行ってきた。新幹線が開通すれば…

→ 第39回 私の新たなキャリアの道筋を拓いてくれた、新津利通さん。先日…

→ 第40回 親子で設立された「麦っ子広場」は、いつも楽しい音楽に包まれたNPOだ。来年は…

第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が、かけがえのない大切な学びの時間に変わった日を思い出す。そこには、恩師の厳しいお導きがあった。
(株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫


  まだ新幹線が開通していない時代、東京への出張は、片道3時間ほどかかった。その間、私はまず売店でいわゆる大衆向けの週刊誌を数冊買い、それを読み終わってもまだ残った時間は、惰眠にあてるのが常だった。

  ある時、勤務先の清水栄一社長(当時)と偶然同じ車両になった。どうやら同じ会議にでるためのご出張であったようだった。たぶんトイレに立たれたと思われる栄一社長が、週刊誌を読みふけっていた私の横を、早足に通りぬけられた。社長に気づいた私は、驚いて立ち上がりご挨拶をしたが、栄一社長は、ニコリともしないまま、ご自分の席に戻られた。どうしたのだろう、と不可解な思いのままでいたが、翌日、会社に出社して、その理由がすぐにわかった。

  「社長が、お呼びですよ」という声で、恐る恐る社長室に入る私の顔を見るなり、穏やかな表情ではあったが、こうおっしゃった。「たとえ汽車の中とはいえ、もうちょっと、ちゃんとした本を読みなさい」。そして、「これ、おもしろいよ…」とおっしゃり数冊の本を差し出された。私は、顔から火がでるような恥ずかしい思いをし、お礼も上の空で、逃げるように社長室を退散した。「そうか、あの時の社長の不機嫌さは、私が週刊誌を読んでいたからなのか…」と、自分の机に戻りひと心地ついてから、ようやく納得した。お借りした本のタイトルは思い出せないが、ヨーロッパの歴史に関わる本であったように思う。

  栄一会長は、ヨーロッパ、とくにギリシャ文明に深いご見識をお持ちであった。また、ときに、心おきない場所では、ドイツ語の歌を口ずさんでおられた。「信州百名山」の「9山 天狗原山」の章に、「~山頂に夕べを迎えるのは、山登りのすべての時間のうちで、私の一番好きな時である。~」とある。そして、ドイツ民謡をご自分で訳されて歌ったと書かれている。「~再び夕べになりにけり。野山はしじまに、とざされぬ」…。

  平成6年、会長の一周忌にあたり追悼集を発行することになった。編集を担当させていただいた私は、そのタイトルを、会長が残された筆跡を集めて、「野山は しじまに」とした。

  さて、これから残された人生の貴重な時間、どんな「ちゃんとした」本を読んで過ごそうか。毎月、10冊程度は本を買うが、最後まで読み終わるのは、2、3冊しかない。残った本は、現役を退いたあとの「お楽しみ」にとっておこうと買っているのだが、今のペースでは、ずいぶんと長生きしなければ、読み残してしまうかもしれない。そして、再会した栄一会長に、また叱られてしまうのかな…。

平成23年3月