home  → キャリアの隠れ家  → 第32回  10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。
      それは、内田樹氏の卓見を緩用するなら、「読みつつある私」が、50年の歳月を経て「読み終えた私」との出会いを検証する作業になるのだろう。


キャリアの隠れ家

→ 第1回 東山魁夷館

→ 第2回 仕事の苦労を仲間と語り合う時間と空間、それが僕の隠れ家

→ 第3回 戸隠神社奥社参道

→ 第4回 山田温泉 “舞の道”

→ 第5回 小県郡浅科村

→ 第6回 「花屋」(おぶせフローラルガーデン)

→ 第7回 東京芸術大学大学美術館

→ 第8回 鬼のいない里、鬼無里

→ 第9回 須坂市浄運寺

→ 第10回 須坂市須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

→ 第11回 松本民芸館

→ 第12回 古書店

→ 第13回 映画館

→ 第14回 「矢沢永吉ファンの隠れ家」ダイヤモンドムーン

→ 第15回 おいしい珈琲が飲める隠れ家 丸山珈琲小諸店

→ 第16回 全国の高校の同窓会ノートがある、東京新橋 有薫

→ 第17回 白洲次郎・正子の隠れ家 武相荘

→ 第18回 セカンドキャリアの隠れ家、「ギャラリーウスイ」

→ 第19回 旧望月町にある「YUSHI CAFE」は、昔懐かしいマランツが…

→ 第20回 東山魁夷画伯の墓前で手を合わせる…

→ 第21回 工業の町坂城にある、おししいジャムと紅茶が楽しめるジャム工場直営のアップルファーム。

→ 第22回 ようやく秋めいた9月の休日、信濃33番観音霊場…

→ 第23回 車中は、一人きりの「素」になれる貴重な時間…

→ 第24回 ライブコンサートは、仕事のストレスから「断捨離」して…

→ 第25回 新たな年の初めには、書初めがよく似合う…

→ 第26回 カウンターで一人、おいしい日本酒が堪能できるお店、「ながい」。

→ 第27回 酒器は、銘酒に欠かせない最高の小道具だと思う。

→ 第28回 「山は私を育てた学校である」と遺した恩人は…

→ 第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が…

→ 第30回 上田市の無言館に、生きることを許されなかった画学生たちの叫び声を、聴きに行った…

→ 第31回 小布施町の「古陶磁コレクション了庵」で、おいしいコーヒーと庵主の話に時間を忘れる…

→ 第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の…

→ 第33回 かつて「鉄腕稲尾」に憧れた野球少年が、今では、孫といっしょにバッティングセンターに通う…

→ 第34回 最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても…

→ 第35回 NHK教育テレビには、視聴率優先の発想では実現できそうもない番組があって、今では、私のキャリアを磨く貴重な…

→ 第36回 上田柳町の「亀齢」という地酒を飲むと、10年前、思いがけない訃報に接した親友を思い出す。お酒も、本も、仕事も…

→ 第37回 また一つ、幸せなお店との出逢い。3代続いた老舗のとんかつ屋「一とく」の店主は…

→ 第38回 5月の連休を利用して、金沢に行ってきた。新幹線が開通すれば…

→ 第39回 私の新たなキャリアの道筋を拓いてくれた、新津利通さん。先日…

→ 第40回 親子で設立された「麦っ子広場」は、いつも楽しい音楽に包まれたNPOだ。来年は…

第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の卓見を緩 用するなら、「読みつつある私」が、50年の歳月を経て「読み終えた私」との出会いを検証する作業になるのだろう。
(株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫

第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の… 第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の…


  私の「キャリア」に、最大の影響を与えたものは、多分、本との出会いだ。そのルーツといえる本が、今でも、私の手元に残っている。50年前に印刷されたもので、紙は土色に色あせ、製本のための糸もほぐれ始めているが、本としての命は、最後の威厳を誇るかのように、格調高く息づいている。

  奥付に、「昭和32年11月10日発行」、「定価200円」、「発行所 株式会社大日本雄弁会講談社」と記されているその本のタイトルは、「世界名作全集(1)『ああ無情』」だ。昭和32年といえば、私が小学校2年生、8歳になるが、実際に読んだのは、その1、2年後としても、10歳前後のことだろう。作者は、フランスの文豪として知られるビクトル・ユーゴーで、その原題は『レ・ミゼラブル』、直訳すると『みじめな人たち』となる。

  本のタイトルのまま、その物語は、無垢な子供心に、あまりに衝撃的であった。ひもじさゆえにパンを盗み、その「ささやか」な罪ゆえに、一生の苦しみを背負う主人公ジャン・バルジャンの波乱万丈の人生に、10歳にも満たない私は心おののき、打ち震える手で、頁をめくっていたことだろう。

  そのような半世紀も前の読書体験が、60歳を超えた私のキャリアに、どのような影響を刻んできたのか。『ああ無情』に登場する人物一人一人が、私の目の前で立ちあがり、小さな心の土壌をかき乱し、「無情」という種子を容赦なく植えつけていったのだ。さて、その時の種子は、それからどんな軌跡をたどって、今の私の中に生き続けているのだろうか。

  高校生になると、小林秀雄や中原中也、そして大江健三郎を読み始めて、文学の世界の入り口に立った。当時流行していたヌーベルバーグ(新しい波)と呼ばれる監督たちがつくったフランス映画を観るために、たびたび授業を抜け出し、映画館に通ったりした。ジャンヌ・モローという、知的でアンニュイな雰囲気を漂わせる女優が好きだったので、ませた高校生だったのだろう。そして大学は、結局フランス文学科に進み、カミュやサルトルと出会う。10歳の心に根ざした「無情」の種子は、それから10年後、『ペスト』や『嘔吐』を読みながら、「不条理の哲学」に共震する大学生へと育ったとはいえる。

  今、電子書籍の出現で、「本」の危機が叫ばれている。果たして液晶パネル越しの活字を読むことで、紙に印刷され束ねられた「本」を読んで体験したような読書の醍醐味に浸ることができるのであろうか。畏敬する内田樹氏が、『本は、これから』(池澤夏樹編 岩波新書)に収録された「活字中毒患者は電子書籍で本を読むか?」の中で、こう書いている。少し長くなるが、卓見なので、ご紹介したい。

「~読書とは、『読みつつある私』と、物語を最後まで読み終え、すべての人物のすべての言動の、すべての謎めいた伏線の『ほんとうの意味』を理解した『読み終えた私』との共同作業なのである。紙の本では頁をめくるごとに、『読みつつある私』と『読み終えた私』の距離が縮まり、それと同時に『読み終えた私』の感じている愉悦が少しずつ先駆的に先取りされる。そして、最後の一頁の最後の一行を読み終えた瞬間に、ちょうど山の両側からトンネルを掘り進んだ工夫たちが暗黒の一点で出会って、そこに一気に新鮮な空気が流れ込むように、『読みつつある私』は『読み終えた私』と出会う。読書というのは、そのような力動的なプロセスなのである。電子書籍はこのような『読み終えた私』への小刻みな接近感を読者にもたらすことができない。~」と。

 10歳で読んだ『ああ無情』は、まさに、幼い身体全体を覆う「力動的なプロセス」の体験だったのだろう。「本当に、おっしゃるとおりです。恐れ入りました」と、いうしかない。「紙」と「液晶パネル」の違いだけでは片付けられない読書の謎を、内田氏は、「やさしく、ふかく、そしておもしろく」解き明かしてくれた。


平成23年4月5日