キャリアの隠れ家
第25回 新たな年の初めには、書初めがよく似合う。筆を持ち、好きな言葉を書き続けるうちに、ざらついた心が癒されてくる。
小さい頃、習い事といえば、習字教室に通う程度だった。小学校に上がった頃から、確か月に2度程度だったかと思うが、5、6年続いた。遊びたい盛りの頃で、正座をして筆をもつ時間が窮屈でたまらず、何とかズル休みしようとするが、結局母親に片腕をつかまれ、教室の前まで連れて行かれたことを思い出す。
先生がとても熱心な方で、生徒たちは毎年、長野県展に出品することが課せられていた。母が亡くなり、片付けをしていると、当時の出品作品が掛軸に表装され、残されていた。4軸あるうちの3軸に「入選」と赤印が押されていた。色褪せた、その拙い作品を見ながらふと思いたち、カルチャーセンターの書道教室に通うことにした。隔週の手習いだったが、それでも2年ほど続き、正月には書初めをするという「おまけ」もついた。
読書が小さな液晶パネル相手になってしまうほどのデジタル化の中で、習字離れも進んでしまうのではないかと心配だが、高校生の間では書道ブームで、書道部の女子生徒たちは、「書ガール」と呼ばれるほどだとか。
筆やペンを使って文字を書くことと、キーボードでパソコンに入力することと、同じ文章を書き綴るのでも、やはりまったく別の行いだ。紙の上に文字を書くことは真剣勝負のようなもので、そこには消すことのできない言葉の命が刻み込まれる。2年ほど前亡くなった俳優の緒形拳の書が好きでよく見るが、どの作品も、その時々の感情が迸るような、生々しいエネルギーが感じられ、まさに、緒形拳の命が刻まれる如く、ある。月並みだが、やはり「書は人なり」なのだ。
今年の書初めは、その緒形拳が骨壷に書いたという「今日感会 今日臨終」を選んだ。緒形拳の生き様が籠められた、深みあふれる筆跡には遠く及ばないが、それでも1時間も書き続けているうちに、ふっと、肩の力が抜け、筆が自分の手を離れ、紙の上を一人歩きしていくような、そんな心境になった。ひょっとしたら、「書は人なり」の入口に立てた瞬間なのかもしれない。下手は下手なりに愉しめ、そして、筆をもつ間、何事にもとらわれない透明な時間に包まれ、癒される。
さて、孫にもぜひ習字教室に通わせたいのだが、その説得にもう少し、時間がかかりそうだ。
平成23年1月