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キャリアの隠れ家

→ 第1回 東山魁夷館

→ 第2回 仕事の苦労を仲間と語り合う時間と空間、それが僕の隠れ家

→ 第3回 戸隠神社奥社参道

→ 第4回 山田温泉 “舞の道”

→ 第5回 小県郡浅科村

→ 第6回 「花屋」(おぶせフローラルガーデン)

→ 第7回 東京芸術大学大学美術館

→ 第8回 鬼のいない里、鬼無里

→ 第9回 須坂市浄運寺

→ 第10回 須坂市須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

→ 第11回 松本民芸館

→ 第12回 古書店

→ 第13回 映画館

→ 第14回 「矢沢永吉ファンの隠れ家」ダイヤモンドムーン

→ 第15回 おいしい珈琲が飲める隠れ家 丸山珈琲小諸店

→ 第16回 全国の高校の同窓会ノートがある、東京新橋 有薫

→ 第17回 白洲次郎・正子の隠れ家 武相荘

→ 第18回 セカンドキャリアの隠れ家、「ギャラリーウスイ」

→ 第19回 旧望月町にある「YUSHI CAFE」は、昔懐かしいマランツが…

→ 第20回 東山魁夷画伯の墓前で手を合わせる…

→ 第21回 工業の町坂城にある、おししいジャムと紅茶が楽しめるジャム工場直営のアップルファーム。

→ 第22回 ようやく秋めいた9月の休日、信濃33番観音霊場…

→ 第23回 車中は、一人きりの「素」になれる貴重な時間…

→ 第24回 ライブコンサートは、仕事のストレスから「断捨離」して…

→ 第25回 新たな年の初めには、書初めがよく似合う…

→ 第26回 カウンターで一人、おいしい日本酒が堪能できるお店、「ながい」。

→ 第27回 酒器は、銘酒に欠かせない最高の小道具だと思う。

→ 第28回 「山は私を育てた学校である」と遺した恩人は…

→ 第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が…

→ 第30回 上田市の無言館に、生きることを許されなかった画学生たちの叫び声を、聴きに行った…

→ 第31回 小布施町の「古陶磁コレクション了庵」で、おいしいコーヒーと庵主の話に時間を忘れる…

→ 第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の…

→ 第33回 かつて「鉄腕稲尾」に憧れた野球少年が、今では、孫といっしょにバッティングセンターに通う…

→ 第34回 最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても…

→ 第35回 NHK教育テレビには、視聴率優先の発想では実現できそうもない番組があって、今では、私のキャリアを磨く貴重な…

→ 第36回 上田柳町の「亀齢」という地酒を飲むと、10年前、思いがけない訃報に接した親友を思い出す。お酒も、本も、仕事も…

→ 第37回 また一つ、幸せなお店との出逢い。3代続いた老舗のとんかつ屋「一とく」の店主は…

→ 第38回 5月の連休を利用して、金沢に行ってきた。新幹線が開通すれば…

→ 第39回 私の新たなキャリアの道筋を拓いてくれた、新津利通さん。先日…

→ 第40回 親子で設立された「麦っ子広場」は、いつも楽しい音楽に包まれたNPOだ。来年は…

第1回 東山魁夷館(長野市 長野県立信濃美術館併設)
(株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫
私にとって、美術館通いは、数少ないストレス解消のための手段です。長野県内には、数多い美術館が点在していますが、とりわけ訪れる機会の多いのが、長野市内の城山公園にある東山魁夷館(県立信濃美術館に併設)です。住まいから車で15分程度の距離にあり、便利であることもその理由でもありますが、実は、もう少し、個人的な理由があります。

 昭和56年、郷里である長野に戻るまで、東京で8年ほど、サラリーマン生活を送っていました。ある銀行のPR誌の取材で、竹橋にある国立近代美術館を訪れた時、一枚の絵が、突然、私の前に現れました。その絵の前には、当然、私の方から、歩いて近づいたのですが、私は、「その絵が、私の前に、歩いて現れた」という感じのショックを受けました。その絵は、東山魁夷の「道」でした。以来、仕事などで、竹橋近くに行く時には、ちょくちょく立ち寄りました。その度に、「道」は、私にとって、なくてならない存在になりました。

 当時、長野に帰郷しようか、東京に留まろうか、迷っていたこともあり、「道」を見ながら、自分の将来、家族の将来を、考えていたのでしょうか。それから1年ほどして、いわゆるUターンをしました。東山魁夷の「道」を一歩一歩あるきながら、私は、ふるさとに帰ってきたのかもしれません。

 長野市に東山魁夷の美術館が開館した時、私は、不思議な運命を感じました。そして、その運命に、感謝しながら、月に1,2度は、美術館に通い続けました。画伯が平成11年になくなられてからは、東京にある「道」の代わりに、絶筆「夕星」の前に立ち、自分の過去と未来のありように、思いをめぐらしています。