home  → キャリアの隠れ家  → 第34回  最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても、
      言葉には文体が必要なのだと思う。さて、私のつぶやきが、どれほどに感応されるのか。


キャリアの隠れ家

→ 第1回 東山魁夷館

→ 第2回 仕事の苦労を仲間と語り合う時間と空間、それが僕の隠れ家

→ 第3回 戸隠神社奥社参道

→ 第4回 山田温泉 “舞の道”

→ 第5回 小県郡浅科村

→ 第6回 「花屋」(おぶせフローラルガーデン)

→ 第7回 東京芸術大学大学美術館

→ 第8回 鬼のいない里、鬼無里

→ 第9回 須坂市浄運寺

→ 第10回 須坂市須坂版画美術館・平塚運一版画美術館

→ 第11回 松本民芸館

→ 第12回 古書店

→ 第13回 映画館

→ 第14回 「矢沢永吉ファンの隠れ家」ダイヤモンドムーン

→ 第15回 おいしい珈琲が飲める隠れ家 丸山珈琲小諸店

→ 第16回 全国の高校の同窓会ノートがある、東京新橋 有薫

→ 第17回 白洲次郎・正子の隠れ家 武相荘

→ 第18回 セカンドキャリアの隠れ家、「ギャラリーウスイ」

→ 第19回 旧望月町にある「YUSHI CAFE」は、昔懐かしいマランツが…

→ 第20回 東山魁夷画伯の墓前で手を合わせる…

→ 第21回 工業の町坂城にある、おししいジャムと紅茶が楽しめるジャム工場直営のアップルファーム。

→ 第22回 ようやく秋めいた9月の休日、信濃33番観音霊場…

→ 第23回 車中は、一人きりの「素」になれる貴重な時間…

→ 第24回 ライブコンサートは、仕事のストレスから「断捨離」して…

→ 第25回 新たな年の初めには、書初めがよく似合う…

→ 第26回 カウンターで一人、おいしい日本酒が堪能できるお店、「ながい」。

→ 第27回 酒器は、銘酒に欠かせない最高の小道具だと思う。

→ 第28回 「山は私を育てた学校である」と遺した恩人は…

→ 第29回 東京出張の行き帰り、往復6時間の車中の「隠れ家」が…

→ 第30回 上田市の無言館に、生きることを許されなかった画学生たちの叫び声を、聴きに行った…

→ 第31回 小布施町の「古陶磁コレクション了庵」で、おいしいコーヒーと庵主の話に時間を忘れる…

→ 第32回 10歳の時の読書体験が、その後の私のキャリア形成に及ぼした影響を考えてみる。それは、内田樹氏の…

→ 第33回 かつて「鉄腕稲尾」に憧れた野球少年が、今では、孫といっしょにバッティングセンターに通う…

→ 第34回 最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても…

→ 第35回 NHK教育テレビには、視聴率優先の発想では実現できそうもない番組があって、今では、私のキャリアを磨く貴重な…

→ 第36回 上田柳町の「亀齢」という地酒を飲むと、10年前、思いがけない訃報に接した親友を思い出す。お酒も、本も、仕事も…

→ 第37回 また一つ、幸せなお店との出逢い。3代続いた老舗のとんかつ屋「一とく」の店主は…

→ 第38回 5月の連休を利用して、金沢に行ってきた。新幹線が開通すれば…

→ 第39回 私の新たなキャリアの道筋を拓いてくれた、新津利通さん。先日…

→ 第40回 親子で設立された「麦っ子広場」は、いつも楽しい音楽に包まれたNPOだ。来年は…

第34回 最近、ツイッターを始めてから、一日の時間感覚が濃くなった。「日記」より簡単な「つぶやき」だとしても、言葉には文体が必要なのだと思う。さて、私のつぶやきが、どれほどに感応されるのか。
(株)カシヨキャリア開発センター 常務取締役 松井秀夫


  子どもの頃から、「独り言はいけない」といわれて育った。ぶつぶつ、つぶやく私の声を母親が聞きつけ、「いいたいことがあれば、大きな声でいいなさい」と、叱られた。

  だから私にとって、つぶやくことは、自制しなければならないことの一つだったのだが、最近、つい独り言がでる。「よし、やった!」とか(最近、ありがたいことに、仕事で、何回で続いた)、「あ、痛!何で、こんなところでぶつかるの?」とか(あざが、いくつもできている)、「何で、こんなことがわからないのかな…」(一人よがりな傾向が強くなりつつあるので、気をつけなければ)とか…

  人間は、どんな時、おもわずつぶやくのだろうか。最近流行のインターネット上の「つぶやき」は、アメリカ人が開発したのだから、日本人よりもアメリカ人のほうが、つぶやきに肯定的なのだろうな、と思う。「ツイッター」と名づけたオープンマイインドな発想って、多分日本人にはできないことだろう。アメリカには、コーピングというストレス対処スキルが体系化されていて、ポジティブな自問自答=意識的つぶやきが、モチベーションアップに効果的だと盛んに実践されているお国柄であることも背景にあるのだろうか?

  さて、2週間ほど前から、そのツイッターを始めた。すでに、ツイッターを上手に仕事にも生かしてくれているメンバーからは、「もう、フェイスブックの時代ですよ」と、いわれた。しかし、この度の震災での使われ方にも興味があり、たとえ1回周遅れでも興味が勝ったので、恐る恐る始めたのだが、これがけっこうおもしろい。ツイッターを書いている時間が、とても濃い時間に思える。時計の秒針が、頭の中でカチカチと思考の時を刻んでいる。「これを書き終わってから、仕事」、そんな集中力がでてきた。ただ時々、他の人の、感情の残滓のような「つぶやき」に出会ってしまうと、(あまり出会いたくはないのだが)、「いいたいことがあったら、大きな声でいいなさい」と、つい、おせっかいをやいてしまいそうになる…

 やはり、ツイッターにも、文体が必要なのだと思う。その人の生き様から立ち上がる思考の跡が、文体として整えられていなければならない。それが、たとえわずか140字のつぶやきだとしても、端正で読む人の心を打つ文体をつくる軌跡は必要なのだ。

 好きな作家の一人高橋源一郎さんの書かれた「震災で卒業式ができなかった学生への祝辞」という、25本に分けられて発信されたツイッターを読んで、その思いが確かになった。 一つ一つは、もちろん140字の短い「つぶやき」なのだが、私の感性は、彼の骨太で上質な思想(文体)と出会い、そのボリューム以上に大きく反応していた。こういうツイッターもありなのだと感動した。たまたま同じ世代(私より2歳年下)の、同じ時代を生きてきたというフォローがあったとしても、高橋さんのツイッターは、さすが、すごい。

私も、たとえささやかではあっても、これまでの思考の跡が確かに刻まれ、言葉の一粒一粒が生き生きとつながっていく、そんな「つぶやき」を発信していきたと、願う。それができたら、「いいたいことがあるなら、大きな声でいいなさい」と叱った母親も、私の「つぶやき」を許してくれ、やがて、褒めてくれるに違いないと思うのだが…

高橋源一郎さんの「震災で卒業式ができなかった学生への祝辞」→こちら で読めます。

平成23年4月18日