キャリアの隠れ家
- 第80回 1969年、19歳で上京した。街も、大学も、そして、私自身も、まさに「青春」の始まりであった。
徳永英明の『壊れかけのradio』が、メロディも、詞も、何とも切ない。その一節に、『♪思春期に少年から大人にかわる 道をさがしていた 汚れもないままに♪』という歌詞がある。この歌は、ずいぶん大人になって聴いたのだが、これを聴く度に、10代前半の自分を思い起こさせる。
さて、多くの友人たちより1年多く受験勉強をしいられたにもかかわらず、結果的に、その甲斐もないままの高校生になって、流石に、このままではいけない、と思うようになった。
部活は、中学時代に自信があったバスケットボール部に入ろうと思ったが、浪人中のブランクは思いのほか大きく、同じ1年生でも、体のきれがずいぶん違うと感じ、結局、どのクラブにも入ることはなく、しばらくは、学校と家との往復だけの毎日が続いていたように思う。
とはいえ、試験間近になると、少しは勉強した。そのうち、それが試験の結果にも反映されると、そうか、大学に進学してみるか、と考えるようになった。2年生になると、クラスでもトップクラスの成績になった。そうなると、不思議に欲が出てきて、一層勉強に身が入り、志望大学も具体的になり、吉永小百合さんやマスコミ系の仕事をしている有名人の多くが通った早稲田大学文学部を意識するようになった。模擬試験でも、合格ラインギリギリの成績にもなった。
高校のクラスには、私と同じ浪人組が6、7人はいたと思う。また、留年組も2人ほどいた。彼らは、私以上に大人びて見えた。中には、ちょいワルな悪戯をしては、停学などを繰り返す猛者もいた。私も、同じ悪戯の現場に居合わせたことも数回あったが、幸いに先生には見つからず、事なきを得た。
2年生後半から受験優先の時間割になったことを幸いに、数学や理科系の授業はほとんど出席せず、その代わり、市内の映画館に、よく出かけた。上映作品が代わるのが待ちきれないほどだった。映画館に出かける時は、カバンに、小林秀雄の文庫本を忍ばせた。国語の試験問題によく引用される文芸評論家としての出会いだったが、そのうち、そのシニカルな人間観察や文芸評論のしたたかさに惹かれた。それなりの「大人」になるには、これだけの莫大な知識が必要なのかと、向学心を刺激された。

本稿とは直接関係ないが、10代の進路意識をくすぐる秀逸なコピー。
同級生に、エルビス・プレスリーの大ファンがいて、髪型もリーゼントにしていて、何となく話があった。ビートルズが日本でも大人気で、グループサウンズも一世を風靡していた。テンプターズのショーケンがカッコよかった。また、歌謡曲御三家の中では、西郷輝彦が好きだった。
結局早稲田大学には落ちてしまい、明治大学文学部フランス文学科に入った。早稲田大学の試験は、時間ギリギリまで頑張ったが、自信ないまま終了した。明治大学の試験は、早稲田にくらべれば余裕を持って終わった。明治は、大丈夫だと、ちょっとほっとした。どちらかの試験の後か、東大紛争まっさかりの安田講堂事件が起きていて、何かに惹かれるように、その現場まででかけた。目の前の装甲車や機動隊員の姿は、当たり前であるが、テレビニュースそのままで、これから東京暮らしをするのだという現実感が生まれた。そして、その年、結局東大の試験は、中止された。
明治大学の合格発表の場から、すぐ母親に電話した。それなりに喜んでくれるものとばかり思っていた私に、母親は、「ああ、そうかね」と、拍子抜けした返事だった。後で叔母から、「お母さんは、明治大学の難しさがわからなかったようだから、よく説明しておいたわよ」と、笑って話してくれた。
くどいようだが、今から思うと、さらに一浪しても、早稲田に入っておいた方が良かったかとも思う。明治の受験生の過半数は、早稲田の落第組で、飲み会には、早稲田の校歌を歌うという噂も、単なる冗談の域を越えて、納得できた。
上京して初めてのアパートは、大学の近く、京王線の代田橋にした。東京にいる叔母がつきあって、決めてくれた。一階、三畳一間で、本箱と机をいれたら、布団を敷く場所がなくなった。家賃3,500円。私の青春は、この古い木造アパートから始まった。
さて、13年ほど前からスタートした『キャリアの隠れ家』も、本回で、ちょうど80回となった。また、内容も、個人的なものが多くなっていることもあり、会社のホームページ上でのアップは控えたほうがいいかと思い、ここで、ひとまず最終回としたい。次回81回からは、FaceBookの「ノート」にアップして行きたい。
私の青春時代の回想を、しばらく続ける。
平成25年8月3日