キャリアの隠れ家

キャリアの隠れ家

第74回 新社会人のみなさんへ、先輩から贈る言葉を書いた。問題意識を持ち、孤独の中で、自問自答を繰り返すことが成長への軌道である、と。

上越市高田城址の満開の桜



 毎年4月は、12か月のうちでもとくに鮮やかに新しい季節の変わり目を感じさせる月です。卒業式、入学式、入社式、人事異動、歓送迎会、そしてお花見(笑)など、様々な行事が重なり、この時期、ひと月の流れがとても早く感じる頃でもあります。

  さて、なかでも4月1日には全国各地で「入社式」が行われ、経営者のみなさんが、歓迎や激励のメッセージを述べています。それぞれの業界、職種、企業規模などで、メッセージは様々ですが、マスコミで知りえる、いわゆる大企業や有名企業と言われる経営者のメッセージに、今年は何か、物足りなさを感じました。

  かつては、人生如何に生き、如何に社会に貢献していくべきかという高邁な理想を伝えようとする経営者の見識や情熱を感じることが多かったのですが、今年私が目にし、耳にしたものの多くは、自社の経営問題や眼前の業務遂行に対する心構えなどを説くものが多く、新社会人にとって、この先の遥か豊に広がる人生において、「大志」を抱き得るものであるのか、疑問を感じざるをえませんでした。

  そんないささか不遜な動機も手伝い、私なりに、新社会人のみなさんへのメッセージを認めてみたいと思い立った次第です。

   さて、私は、大学の就職相談員として、また、就職情報誌のビジネスを通じて、毎年200名人ぐらいの学生たちと直接お会いして、就職支援のお手伝いをしています。ここまで延べでいえば、数千人にも及ぶかもしれません。最近は、FaceBookという大変便利なツールもできて、10年前に出会った「元学生」たちとも交流ができ、彼ら彼女たちの活躍ぶりの一端を時々垣間見ることができて、嬉しい限りです。ひょっとして、彼ら彼女たちにも、本稿を目にしていただけるかもしれませんね。

   就職相談員を始めてから、一度だけ中途退学をして就職をしたいという学生との出会いがありました。家庭の都合など複雑な背景があり、中退の道を選ばざるえなかった彼のことを思い、私自身も中退という(背景は大違いですが、、)同じ立場でもあるので、まず、大学中退と就職すること、そして働いていくことの関係について、触れてみたいと思います。

  私自身の経験から言っても、就職試験時はともかく、中長期的に考えれば、中退におけるハンディは、まったくないといっていいのではないでしょうか。もちろん例外はあるとしても、日本企業の9割では、ハンディはない。そして、人生の眼前の凹凸は、人生全体のスパンでいくらでも修正できるものであるといいたいのです。私自身40年以上働いてきて、この歳になって中退であることが心情的には微かに疼くことは確かですが、実際的に、ここまで仕事をする上では、何のハンディも無かったと思います。それは、稀なことだったのでしょうか?私は、そうは思いません。

  その理由を一つだけ申し上げれば、現役学生として卒業しても、中退であったとしても、社会でてからは、次から次へと新たな学びのための「入学」やその「卒業」が、いくつもいくつも待ち構えているからです。ハンディは、次の「入学」や「卒業」で、いくらでも取り戻せると思えるのです。私が入社の際、面接していただいた先代の経営者は、「君は、せっかくの学ぶ機会を一度は自ら放棄したが、この会社で、もう一度、学び直しなさい」と言って、私の、何度目かの「入学」に、合格を出してくれました。

  いくらでもやり直せるということは、もちろん、何も中退というハンディだけに言えるものではありません。仕事の上での失敗でも、プライベートでの痛手でも、必ず取り戻せ、癒されるものである。逆に成功は、いつか必ず失敗にもつながる。どんなにハンディや失敗への恐れがあっても、いつの日かリベンジできるという信念を持ち、チャレンジングな日々を送ってほしい、という激励をまずは、みなさんに贈りたい。

  次に、常に「考える」こと、つまり、「自問自答」することを忘れずにいて欲しいと思います。姜尚中さん流に言えば、「悩む力」です。学生時代にどんなことを覚えたかということよりも、どんな態度で学んだか、どんなこだわりで学んだかを、振り返ってほしい。それが「能力」を養う肥やしになるのです。もちろん、社会人になってからでも遅くはない。単なる知識は、その気になれば簡単に「記憶」できますが、「考える力」や「悩む力」は、そうそう簡単に身体化できるものではありません。先行きの、まことに不透明な時代の中で、人生でもキャリアでも、いつも問題意識を持ち続け、現実と理想との間で「自問自答」することは、とても大事な「能力」だと思えます。  「考える」こと、「悩む」ことは、自らを持続的に成長させて行くために、不可欠な心構えなのです。

  いつも、同じことを同じようにやっていると、考え悩むことが必要となる事態に直面することはありませが、新しいことや違うことをやろうとすれば、必ずいろいろな問題が目の前に立ち上がります。そこに潜む矛盾や不条理に直面し、時に怒りを覚え、絶望の崖の淵に立つかもしれません。その時、その怒りの矛先をどこに向けるのか。どんな姿で、絶望の崖に立ち尽くすのか。そのあり様が、人生の日々に輻湊的に積み重なり、心豊な生き様につながっていくものだと思います。怒りの矛先は、自分を成長させる方向にむけてほしい。絶望の崖に立つときは、その目の前の未来の明るさに気付いてほしい。、

  紙幅がつきそうですが、最後に、もう一つだけお話しておきたいことがあります。それは、「曖昧さ」を恐れないということです。正悪で判断したり黒白をつけることは、一見ものごとの解決には有効でありそうに見え、時に前向きな気持ちの切り替えもできそうですが、それは、単に問題を先送りしていることにもなりがちなのです。白か黒か、正か悪かは、「曖昧さ」のどこかで、意地悪く息を潜め、その性急な決着に、ほくそ笑んでいるのではないか。ですから、「曖昧さ」の中で、立ち止まることを厭わず、「なぜ」なのかの問を発し続け、孤立の中で、すぐに解け得ない「解」を求め、屹立する勇気を持って欲しい。

  一人でいることが苦手な若者が多くなっていると聞きます。逆に、集団の中に入って行くことを避ける若者も多い。この真逆な現実は、何を表しているのでしょうか。

  FaceBookやツイッターでつながっている「仮想社会」の存在が背景にあったとしても、「曖昧さ」のなかに、したたかに潜む「現実」を直視することを避けているのではないか。多くの情報に囲まれて、簡単になんでもわかり得る社会であると思われる中で、実は考え続け、悩み続けないと何もわかり得ないことを知らない振りし、生々しい人生の現実の手応えを掴むことを恐れているのではないか。

  たまたま、昨日、村上春樹の新作が発売されました。多分30年以上も前になるかもしれませんが、彼の初期の作品群を読み、その主人公の誰でもが、人生の「曖昧さ」の中に立ち、悩み、解を求め続ける姿勢に、震撼を覚えました。

  確か、『ノルウェーの森』か『海辺のカフカ』か、その中に、「~世の中には、白と黒の色の間に、灰色の色があって、その灰色の世界で立ち止まり、考え続けることが、知性なのだ~」という趣旨の主人公の科白がありました。(正確ではありませんが)

  このアプローチの中に、村上春樹が追い求めている主題が、まことに良くあらわれているよう思いますし、私が本稿を通じて、村上春樹ほど「簡潔」ではなく、わが身の表現力不足を恥ずかしく思いながら、みなさんに伝えたいメッセージでもあります。

  たまたま、今日(平成25年4月13日)の日本経済新聞のコラム「春秋」に、村上春樹の新作発売に触れて、こんな文章が書かれていました。「~村上さんはある随筆でこんなふうに説明する。『人間は生涯に何かひとつ大事なものを探し求めるが、見つけられる人は少ない。もし見つかったとしても、致命的に損なわれている。にもかかわらず我々は探し続けなくてはならない。そうしなければ、生きている意味がなくなるから』」

  私は残念ながらこの随筆を読んではいませんが、これほどポジティブに、わかりやすく、人生を説明してくれる文脈が、村上春樹の魅力なのでしょう。

   さて、新社会人のみなさんの新たなスタートに当たり、冒頭に大見得を切った割には、どれほどの「見識」があり、「情熱」が篭められたのか自信はありません。ここまで、40年にわたり試行錯誤を繰り返してきたわが身として、一つでも多くのことを後輩のみなさんに残したい、そんな思いで書き始めました。不十分さはまた、何れの機会に書き足して行くとして、この春旅立つみなさんの人生の「大志」に、少しでも役立つものであることを願って、贈る言葉を閉じたいと思います。

  平成25年4月13日

株式会社カシヨキャリア開発センター

常務取締役  松井秀夫