キャリアの隠れ家

キャリアの隠れ家

65回 先輩方が、一人二人と会社を去って行く。寂しいことだが、その方々の分まで、当社の歴史やDNAを後輩たちに伝えて行く使命感を痛感して、身の引き締まる思いがする。



先輩や同僚たちが、定年で会社を引いていくたびに、一人残されて行く、そんな淋しさを感じる歳になった。

   今年は、6月にお一人、8月にお一人、そして10月にもお一人、定年でお辞めになる方がいて、ひときわその感を強くした。いわゆる団塊世代前後の人たちが、会社を去るタイミングとなってきたのだ。

   10月の送別会では、34年会社に貢献された荒井常務が、定年でお辞めになり、その送別会が、盛大に行われた。

   当日、社員を代表して、送別の辞をお贈りするという大役を仰せつかった。会社勤めを始めてからの初体験で、少々緊張したが何とか無事終わることができ、正直、ホッとした。以下、その時の内容を再現させていただくことにする。

   個人的な内容やお客様との関わりなど、少し伏せさせていただいているがほぼ当日と同じことだと思う。

    「ご指名ですので、荒井常務をお贈りする言葉を、述べさせていただきます。こういう場に立たせていただくことは、初めての経験であり、まことに、光栄でございます。

   さて、すでに社内報で、荒井常務自ら、これまで34年間の思い出をお書きになっていらっしゃるので、読まれている皆さんは、私と共通の感想をお持ちかと思います。

   私は、これまで、荒井常務にお仕えして、特に二つのことを感じ、そして学ばせていただきました。

   先づ最初にお伝えしたいのは、荒井常務は、『信念の人』であったということです。先代の会長にも、そして社長や専務にも、本当に、会社のためになると思うことなら、臆することなく、お考えを述べられました。私は、そういう場に何度も同席させていただき、私だったら、とてもそこまでは言えないなあ、と思うことが、度々でした。そして、そこで述べられたことは、私利私欲のためではなく、会社のため、社員のため、後輩のためであることが、私には、よくわかりました。ご自分が、会社のためになると信じたことを、「まっすぐな視線」で伝えてこられたと思います。

   個人的なことで、一つご披露します。平成3年、I常務が営業本部長となり、M部長と私が、お支えするという体制になり、荒井常務は、常務取締役工場長に昇進されて、営業部門から生産部門に移られました。しかし、以来、度々私は、荒井常務に声をかけられ、「松井さん、もっと自分の考えで、仕事をしないといけない。遠慮しすぎではないか!」と、幾度となく指摘をいただきました。部門が違う私にも、いろいろ心配され、それが、会社のため、私のためになると信じたことは、たとえ他の部門の人間にも、直言されるというお方だったと思います。今から思えば、おっしゃっていただいた通りであったなあ、反省の思いです。

  二つ目は、人間関係づくりの達人、もっといえば、あまりいい表現ではないかもしれませんが、『人たらし』の方だったと思います。荒井常務は、仕事を通じての人脈はもちろんですが、よく知られているように、ご自身もトランペットの演奏家であり、県下にいるたくさんの音楽仲間の方々、高校や大学時代の同窓生たち、また、プライベートも含めて、そのネットワークの広さは、飛び抜けていらっしゃいました。そして、特筆すべきことは、それらの広い人脈を通じて、上手に営業活動を行い、きちんと仕事に結びつけてこられたということです。今は、仕事は仕事、プライベートはプライベートと割り切っている人が多いように感じます。プライベートを仕事につなげるということは、よほどの信頼関係と責任感がないとできないことです。そのおかげで、私も、ここにいる営業マンも、たくさんの恩恵に蒙りました。

   個人的なことを一つだけご披露しますと、私が企画ディレクターの当時、プライベートなお知り合いだと思われますが、とある人形店の販促の仕事を持ってこられ、担当させていただきました。たとえば、企画したダイレクトメールは、当時の郵政省のコンクールで連続して上位入選したり、また、地元紙の新聞広告でも、全段広告という、なかなかできないチャンスをいただき、これも広告賞をいただきました。こういう私にとって思い出にのこる仕事を思い存分にさせていただいたのも、営業担当だった荒井常務とクライアントであるオーナーとの強い信頼関係の賜物であったと思います。

   さて、与えていただいた時間が過ぎてしまいましたが、もう少しお時間をいただきたいと思います。

   一つは、平成6年6月、当社が、松本に営業所を開設し私が初代の所長として赴任したいきさつです。

  その前年暮れ、I常務、M部長、U部長、そして荒井常務と、いつも一緒に飲みに出かけるメンバーと、仕事に納めの後、権堂に出ました。毎年の恒例の行事です。そこで、いろいろな話が出る中、I常務から、来年度は松本に営業拠点を作りたいが、誰を責任者で行かせるか、なかなか決まらない、という話が出ました。

  私も候補の一人だったように思いますが、単身赴任ということもあり、どなたもが、踏ん切りがつかないまま、時間がすぎていたのです。

  その席で、荒井常務が私に向かい、「松井さんが行くといえば、すんなりきまるのに」、と私の顔を見て、ポツリと仰いました。その時は、そのままお開きとなりましたが、荒井常務のお言葉は、私に、さらに大きく飛躍して欲しいという覚悟を迫るものでした。

  当時私は、印刷ツールの営業の他に、新卒の採用メディアの責任者をしており、新しい市場開拓の先兵的役割を、担っていたからです。

  年が開けて、女房の了解を得て、私は直属の上司になるI常務に、松本行きをお受けする旨お伝えしました。

  松本での勤務は、3年に及びましたが、時代が良かったこと、一緒に行ってくれたメンバーの頑張りもあり、初年度から毎年倍増の売り上げを続け、私が本社に戻った4年目の業績は、初年度の10倍の売り上げを挙げるまでになりなりました。

  これも、荒井常務が、会社の業績拡大と私の役割を冷静に判断され、迷っていた私の背中合わせを押して頂いたということだと思います。

  最後に、もう一つご紹介させていただき、終わります。

  私が、当社に入社したのは、昭和56 年4月21日のことです。朝出社して、営業の皆さんに、初めてご挨拶をさせていただきました。その時、前方左手から、私にとても強い眼差しを感じ、思わず、その方向に顔をむけました。その方と目と目が会いました。ああ、こういう厳しい表情をされた方と、これから一緒に仕事をしていくんだと思ったことを、印象深く今でも覚えています。もちろんその方は、荒井常務でした。

   さて、時間が大幅に過ぎてしまい、まことに申し訳けありません。私がこの会社にお世話になった最初の日に、先ほどのように、印象的な出会いをした荒井常務に送別の言葉をお贈りさせていただくことになり、まことに光栄なことであり、一方ならぬご縁であったと思うところでございます。

  荒井常務、これまで、長い間、ご指導をいただき本当に、ありがとうございました。」

  さて、世代交代は、世の習いであり、企業経営にとって、新しい発展のために欠かせないものだ。当社の社是である「最も古く、最も新しく」のためにも、先輩たちが培ってくれた伝統や業績を、確かに後輩たちに残して行くことが、私に残された大事な使命であると、身の引きしまる思いでいる。

※当日、いろいろお話したいことを考えてきたのですが、こういう機会に不慣れであることも合わせ、すべてお伝えできなかったことが、残念でした。特に、『松本営業所立ち上げ」の下りは、時間の関係で省略したものですが、ここで付け加えさせていただきました。あとは、お客様に関わることなど、伏せさせていただいていますが、ほぼ当日と同じ内容です。

※荒井常務のご了解をいただき、お名前をださせていただきました。快くご承諾をいただき、ありがとうございました。

 平成24年12月9日

株式会社カシヨキャリア開発センター

常務取締役  松井秀夫