
10年ほどすんでいた吉祥寺。井の頭公園は、若いころの思い出の場所。
コピーライターとして、職業の先行きが見えてきて、生活も人並みに送れることが何となく確信でき始めたのは、23、4歳の頃だったか。給料も、高度成長期の追い風に乗り、広告代理店は、他の業界よりもよかったように思う。
ただ、すぐに、いわゆる第一次オイルショック、そして、第二次オイルショックなどと、世界的な不況が発生して、日本の経済も、企業経営も不安定だったが、まだまだ経営的視点など人ごとのような意識だったので、今から思うと、ずいぶん「気軽なサラリーマン」だった。
それでも、仕事は相変わらず忙しかった。世間の勤務時間とは無縁なサイクルで仕事をしていた頃、今でも忘れられない女性と出逢った。
最新の「キャリア論」では、「キャリア」とは、仕事だけの狭い概念ではなく、私生活の出来事も統合された幅広い経験や能力として捉えることが肝要だという。したがって、恋愛体験によって生じる様々な心理的葛藤やそこから得られる成長の軌跡も、立派な「キャリア」になるはずなので、ここで触れることをご容赦いただきたい。
彼女との出会いは、新宿東口近くの「高野」というフルーツパーラーの前であった。(先日、新宿にいったら、海外のブランドのお店に変っていたが)。ある休日の午後の昼下がり、お互い別々のデートのために、その場所で待ち合わせをしていた。彼女との距離は、ビルの右端と左端。その間の30mほどのスペースには、たくさんの待ち人たちがいたはずだが、私は、なぜか、彼女の姿を印象深く認めていた。15分すぎても、30分すぎても、お互いの待ち人は、来なかった。諦めて、そろそろ帰ろうと思うと、彼女もそこを立ち去るそぶりだった。私は、思い切って近づき、「来ませんでしたね」と声をかけた。
当時の言葉で言えば、「ガールハント」というのだろう。上ずるような声の、うぶな表情の私に向かって、彼女は、好意的な笑顔をむけて、頷いたように思うが、なにしろ、40年も前のことなので、定かではない。(笑)
彼女は、ハイヒールのせいもあったのか、私とほぼ似たような背丈で、当時流行りの「パンタロン」がとてもよく似合う、スレンダーなお嬢さんだった。パンタロンの色は白で、ハイヒールは、確かピンクだったと思う。その1週間後から、デートが始まった。待ち合わせは、だいたい、新宿の紀伊国屋裏の「トップス」だった。当時、彼女の勤務先の最寄り駅は、地下鉄丸ノ内線の赤坂見附だった。私は、吉祥寺に住んでいたので、新宿での待合せが、お互いに都合が良かった。
時間にルーズにならざるを得ない、毎日追われるような心理状況で仕事をしていた私は、デートの待ち合わせ時間に、平気で、30分も1時間も遅れたが、彼女は、辛抱強く待っていてくれた。本を読みながら私を待つ彼女の後姿を見ても、当たり前のように、「ごめん」、たった一言で、近づいて行った。今のように携帯電話などない時代、最初のうちは、お店に電話して呼び出してもらい、事情を説明したりしたが、そのうち、それも面倒で、しなくなった。
彼女の実家は、中央線から私鉄に乗り換えていく、静かな住宅街にあった。お父さんは、大工の棟梁のような仕事だったと思う。無口な職人気質のお父さんに比べ、お母さんは、当時の人気番組「肝っ玉母さん」のような、明るい人柄だった。彼女は、一人住まいの私を、よく実家に呼んでくれた。お父さんもお母さんも、娘の「仲のよい友人」として、迎えてくれた。夕食もご馳走になり、ついつい長居をして10時を過ぎると、「泊まっていきなさい」と言ってくれた。彼女と少しでも一緒に居たい思いから、それに甘えたことも多かった。今から思えば、ずいぶんと図々しい振る舞いだった。そんな私を、迎え入れていただいた彼女の両親の温かさに、今でも、感謝の気持ちが生まれてくる。
当時、野口五郎の「私鉄沿線」が流行っていた。彼女の実家も、私鉄沿線にあったから、たまに今でも、その当時を思い出し、カラオケで歌う。駅から彼女の実家まで、手を繋いでの行き帰りなど、子連れで散歩中の父親が、その幼い子供に向かって、「綺麗なお姉ちゃんだね」といっている声が聞こえてきたこともあった。確かに、ファッションモデルといってもいいような、チャーミングで、可愛い人だった。
しかし、「仕事第一」の私の身勝手な行動に、彼女との間のすれ違いは、日々大きくなっていたことに、鈍感な私は、気づかなかった。彼女と付き合い始めて1年半ほどしてから、「もう、お別れ」との言葉が出るようになり、そのたびに、私は狼狽し、懇願し、かろうじて3年ほど続いていた。
今から思うと最後のデートになった3年目のある日曜日、いつもと同じく彼女の実家に遊びに行った私を駅まで見を送ってくれた彼女の表情が、とても美しく、母性的で、そして輝いて見えた。その顔を見て、「この人は、永遠に私のものだ」、そんな確信が芽生え、私は、いつになく心穏やかに、私鉄駅の改札口から、吉祥寺に帰れた。いつもは、今度いつあえるか、私と会っていない時、他の誰かとデートしていないか、そんな独占欲から心乱れながらの別れが多かったのに、その時だけは、心落ち着いていた。私鉄から中央線に乗り換え、吉祥寺駅に向かう電車の車窓から見る街街の家庭の灯りを、満ち足りた思いで眺めていた。
その日以来、1週間たっても、1ヶ月たっても、あれだけ逢い焦がれた彼女に、私は、電話をすることがなかった。なぜ、そういう精神状態に変わったのかわからないが、逢いたい、一緒に居たい、自分一人の存在でいて欲しい、そんな彼女への執着心は、まことに不思議ながら消えていった。そして、彼女からも、私のアパートの共同電話の呼び出しはなかった。
なぜ、あれだけ醜いまでの彼女への独占欲が、その日を境に、綺麗さっぱり消えて行ったのだろうか、今でも、不思議に思っている。そして、私は、今、こう思うのだ。あの時、私鉄沿線の駅の改札口に立ち、ホームに消える私を最後まで見送ってくれていただろう、彼女の無垢で清廉な魂が、私の一人よがりな「我欲」を浄化してくれたのではないか。彼女の心の中に、私との恋愛のよって生まれた諦観のような「何か」が、私を包み込んで、私の我欲を諭してくれたのではないか。
さて、そんな彼女は、確か、2歳年下だった。今年、61歳になるはずだ。孫がいても不思議ではない年回りになっている。そんな彼女に、もう一度逢いたい気持ちがあるが、それは、野暮というものだろう。それも承知で逢えたなら、私は、何と言えばいいのだろう。幼い、青臭い我欲同士のぶつかり合う、修羅場のような別れをしなくても済んだことに、まずは、何よりもお礼を言いたい。
平成24年10月
株式会社カシヨキャリア開発センター
常務取締役 松井秀夫