
51歳のとき、地元新聞社から受けた取材記事。「読書」のシリーズコラム。
仕事にも人生にも、必ず幾つもの「節目」といわれる時期があり、その迎え方や過ごし方は、大変難しいものがある。今が「節目」であるとわかっていても、どう迎えるか、どう過ごしていくか、なかなか正解はないからだ。そして、だいたいはその後になって、「あの時が、節目だったな。ああ、すれば良かったな」と、反省することになる。
61回目でも書いたが、平成17年から2年間、地元の大学の研究生になり、「キャリア教育論」のゼミにお世話になった。ゼミの指導教官から、「日本経済新聞に連載されている『私の履歴書』が、キャリア教育の材料にとても効果的だと思うけど、君は、どう思いますか?」と、問われたことがある。
「私の履歴書」の愛読者であった私は、「そうか、確かに、そういう読み方もあるのか」と思い、日本経済新聞社に、執筆者の選び方など、いろいろ問い合わせをしたり、キャリア教育の視点で、これまで掲載された「私の履歴書」について、まとめて読み直したことがあった。
「私の履歴書」の執筆者は、社会的成功者ばかりだが、最初から順風満帆であったというわけではないことは、すぐにわかる。経営者であれば、若い頃上司とぶつかり職場を左遷されたり、手がけたプロジェクトがトラブルに出会い降格されたり、競合会社との熾烈な競争に敗れ、引責したり、数多くの試練に出会いながらも、しかしそこから、再び目の前の環境の中で、やるべきことに気づき、たくましくそしてあきらめずに、再スタートをきっている。
また、組織には属さない政治家や 芸術家など様々な分野でトップと評される方々にも、意外なほどに辛酸を舐めたことが吐露されていて、世間は万事塞翁が馬であり、キャリア形成の道に「正解」はないのだと、あらためて感じる。
多くの挫折や失敗の後にこそ、人生や仕事の重要な「節目」を迎えるのだと思う。成功した後より挫折した後の対処の仕方の方が難しいし、その後の将来を左右するさらに重要な「節目」を迎えることにもつながる。そんなの視点で、「私の履歴書」を読むと、大変興味深いものがある。
以前も何度も書いたが、私の「キャリア」の最初の節目は、コピーライターという職業にであい、学生から社会人デビューした時であろう。先輩について、1年ほど、休みも無いような「修業時代」があった。毎日、自分は、一人前のコピーライターになれるのかという焦燥感と不安感と戦いながら、目の前の仕事に没頭した。締め切り前になると、3、4日は、2、3時間の睡眠しかとれない日が続く。何度も、逃げ出したくなるが、上司の「よくなったな」という入稿前の、たった一言の嬉しさが、また次の仕事に向かわせた。どんな小さなことでいいから、人は褒められることで、辛い仕事でも続けられると思う。
また、東京時代から現在に至るまで、社内外の素晴らしい方々にたくさん出あい、仕事以外の知的興奮の素晴らしさを教えてくれた。例えば誰でもが知っている日本を代表する広告代理店の某プロデューサーの方が主宰する私的勉強会に加わったことあったが、その打ち上げの時、目白(?)のお屋敷にお伺いする栄誉を得た。広々としたリビングに、黒光したグランドピアノがおかれていて、その方が、ウイスキーを飲みながら、ピアノを弾いてくれた。その方は、ちょうど今の私ほどの年齢であったか。23、4歳の私にとっては、計り知れない見識に重ねて、さらにかっこいい趣味やライフスタイルをお持ちのその方のようになりたいと、素直に憧れた。人は、憧れる人を持つことで、充実した人生を過ごしたいという欲望を持つのではないか。「節目」を考える上でも、いわゆる「皮膚感覚」を持てる身近な憧れの人の存在は、大きな影響を与える。
東京から長野に戻り、現在の会社に入社したことも、大きな「節目」であり、そこから現在に至るまで、小さな転機が数多く訪れた。その会社で「教育者」の顔を併せ持つ経営者は、私によく、こうおっしゃっていた。「勉強したいという意欲のない社員には、たとえ数千円の教育費でも惜しいが、意欲があるものには、何十万円使っても、惜しくはないよ」、と。ちょうど高度成長期で、経営者の手腕や優秀な先輩たちの仕事ぶりもあって、当社も、毎年順調な発展を続けられた。私の実力では全うできないたくさんの仕事をいただき、また、自分の能力に余るハードルの高い課題を出され、その会社の建物を見ただけで、胃が痛くなり、冷や汗が出てくるという経験も何度かしたが、その度に、「もっと勉強しなければいけない」との思いを強くし、自ら、「学ぶ機会」を求め、経営者は、寛大にそのチャンスを与えてくれた。
さらに、印刷の仕事から現在の人材事業の仕事に重点を置き始めた頃だろうか。先代はすでに亡くなられていて、現社長から事業領域の多角化のために、人材事業の拡大を命じられ、当時のメンバー、4、5名と、そちらに移った。一緒に行ってくれたメンバーは、従業員なので出向の形であったが、私は実質的な経営を任せられたという「思い」もあり、我が儘を言い「転籍」させていただいた。失敗したら戻らないという覚悟を示したいと思ったからだ。
「会社経営」と「人材事業の立ち上げ」という二つの新たなミッションを持ってのスタートは、私には任が重すぎたのだろう。数年にわたり、少なからずの負債を出してしまった。私と同じくグループ会社の経営を任されていて、この子会社の設立についてもいろいろご心配をしていただいた大先輩から、「君は、経営者としての自覚が足りない。経営者は、会社の預金通帳を毎日チェックするほどに、お金に責任を持たないといけないよ」と、厳しいご指導をいただいた。
その方は、すでにグループ会社の経営では、大きな功績を残されていた。私が当社に入社した当時、先代から私の「教育係」を仰せつかっていらしていたようで、入社して数年の間、メディアの考え方、マーケティングの考え方など、そして、地元の有力な経営者のみなさんとのお付き合いの仕方など、直接的に間接的に、誠に的確でリアルな教えをいただき、現在も、経営者としての姿勢や厳しさを学ばせていただいている。
さて、今から、子会社に転籍する当時の「節目」を振り返ると、そのスタートにおいて漠然と思った「覚悟」の意味を本当に、どこまで深く理解していたのか。前述の大先輩のご指摘などを思いながら、まことに不十分で、中途半端でしかなかったと、反省せざるえない。
「天職」に至る道には、幾つかの「節目」があり、その迎え方、過ごし方などが、とても大切な意味を持つのではないかと考えてきた。私は、友人から言われ自らの「天職」に思い馳せたのだが、果たして、そのようなことで、いいのであろうか。
本来、「天職」とは、どのように気づき、どのように思い定める時に訪れるものなのであろか。結論めいたところまで、まだまだ、時間が必要だ。
平成25年3月11日
株式会社カシヨキャリア開発センター
常務取締役 松井秀夫