京王線 明大前駅から千歳烏山駅前にある焼肉屋さんまで、15分ほどで着いた。私とは永ちゃんファン同士の店主と、顔なじみのスタッフとの挨拶もそこそこに、案内されたテーブルに着いた。
「まずは、ビール」、感慨深い乾杯だった。お互いどんな話から始めようか、若い時と変わらない間合いをとりながら、ビールを口に運ぶ。学生の頃は、財布の中身を気にしながら飲んでいたが、今は、あまりその心配をしなくてもいいことが、違う。
M君が言う。「あの頃は、三島だなあ。それと、サルトル。三島は、よく読んだなあ。『豊穣の海』は、面白かった。」私が言う。「そうだね、市ヶ谷の自衛隊の事件の時は、お前は、どうしていたの?俺は、S君と、新宿の紀伊国屋の4階の喫茶店にいたよ。それで、店内が騒然としてきて、事件を知って、市ヶ谷まで行こう、ということになったが、新宿駅には、入れなかった」三島由紀夫が、市ヶ谷の自衛隊に突入し、その後切腹自害した事件があった。昭和45年、1970年、私は、21歳だった。「そうなんや。あれは、衝撃的だった。文学者が、体制側に与えた影響としては、それまでにないものだ」M君は、学生時代と同じように、彼ならではの独自の視点で、当時読み耽った文学への思いを、饒舌に語り続けた。
実はM君は、私をfacebookで探してから、しばらくして手紙をくれていた。そこには、学生時代にはわからなかった彼の思いが、誠実に書き綴られていた。第一志望の大学に2年続けて受験を失敗し、「~。私にとって文学は救済でありました。挫折、失望からの解放でした。~」「~。facebookとかで、貴兄の名前、写真を見た時は、衝撃!でした。神降臨かと、ご連絡を差し上げた次第です。~」。「文学は、救済でありました」と言う思いがけないM君の独白に、正直、私は少したじろいだ。もちろん、私も文学によって、たくさんのことを教えられたが、M君のように、「救済」と言い切れるほどの深いものであったと、言い切れる自信はなかったからだ。
人生は、さまざま人達との出会いで成り立っている。その出会いの勢いと運命性において、青春時代は、他の時代を凌駕する。しかしまた、人生は、さまざまな人達との別れで成り立っている。寺山修司流に、「さよならだけが人生さ」とまでは言わないが、青春の一時期出会った人達の多く、その再会は叶えようもないといってもいいのではないか。特に、濃い情感を共にして過ごしてきた存在ほど、もう一度、この人と逢いたいと思うのだが、それは実現し得ない、儚いものだ。それが、青春時代の出会いではないか。
M君は、その人生の当たり前を悠然と超えて、私の前に颯爽と現れてくれた。これは、奇跡に近いものではないのか。私に寄せてくれたM君の熱い思いが、文学の「女神」を動かした、決して大げさなとは思えない奇跡的な再会だ。そして、この再会を素直に喜べる僥倖に、心から感謝したいと思えた。
当日M君は、仕事で東京に泊まるという。私は、最終の新幹線で長野に帰らねばならない。名残惜しかったが、2時間ほどの「青春時代」の逢瀬を楽しんで、お店を後にした。
上野近くの宿に行くというM君を車中に残し、私は東京駅で降りた。別れ際、M君の、「お前の後ろ姿は、変わらんな」と言う声が聞こえた。私は、明大前駅の交番の掲示板に見入っていたM君の後ろ姿を思い起こし、「お前もな」、そう伝えたかったが、すでにドアが閉まりかけていて、あわてて降りたので、タイミングを逸した。
走り始めた車中から私を見ているM君を見送りながら、「お前もな」と、心の中で呟いた。
平成24年9月
株式会社カシヨキャリア開発センター
常務取締役 松井秀夫