今でこそ、学生や社会人の就職支援など、いわゆる「キャリア」に関わる仕事をしているが、さて、自らの「キャリア」はどうであったのか。そろそろ、これまでを振り返ってみてもいいかなと、殊勝な心持ちになった。そこで、ここまで気ままに書きなぐってきたキャリアの「隠れ家」から抜け出して、今日までの歩み(キャリア)をたどる「旅」にでることにした。
さて、 職業については、幼い頃、父親が小さな工場を経営していて、結局倒産してしまうその経緯をみてきたので、商売をするという発想は、端から封印してきた。父親とよく似た気の弱さがあるので、厳しい人間関係もいとわない経営者には、向いていないと自覚していたのだ。高校生までのいわゆる職業感とは、そんな程度であった。
晩年の母親から、「私の夢は、お前に、外交官か建築家になってほしかった」と、不肖な息子に対して、まことに大それた夢を、本気とも冗談でもなさそうに、話してくれた。「そういえば、昔、叔母たちからも、そんなことを聞いたことがあったよ。自分の息子の出来ぐらい、分かるでしょうに、、、」、というと、ちょっと照れたように笑って、それきりになった。
高校時代、第一志望の高校に行けず、それならばと拗ねる気持ちも働き、授業を抜け出しては、よく、近くの映画館に出かけた。そして、そこで観たフランス映画にはまった。当時、フランスに、「ヌーベルバーグ」(新しい波)と呼ばれた監督たちが出現し、おしゃれで、どこか根源的な問いかけのこもった映画群が、多感な時代の私を、華やかなフランスの地へと、その想像の羽根を広げさせてくれた。フランソワ・トリフォーとか、ジャン・リュック・ゴタールという監督の名も、格好よかった。ジャンヌ・モロー、ブリジッド・バルドー、カトリーヌ・ドヌーブなどの異国の妖艶な女優に、青臭い異性への関心が重なった。特に、ジャンヌ・モローがお気に入りで、小学生からの大ファンだった吉永小百合とともに、その写真をノートに忍ばせていた。今風に言えば熟女タイプのジャンヌ・モローと清純派アイドルだった吉永小百合も、私の中では同等に、憧れの対象だった。知的な雰囲気が、似ているのかもしれない。
そんなこともあって、3年生で高校卒業後の進路を考えるようになると、自然にフランスへの関心が強くなり、文学部フランス文学科に進んだ。当時は、フランス哲学もマスコミ的には流行していたのが、さすがに、「職業」とはまったく無縁の学問であることは理解できたので、あきらめた。ただ、文学部とは言っても、具体的に職業のイメージがあったわけではなかった。
上京した大学のキャンパスは、学生運動全盛で、キャンパスの外は、機動隊が並び、キャンパスの中は、たて看が立ち、その前をシュプレヒコールをするヘルメット姿の学生たちが行きかった。1年生の時は、授業らしいものは、ほとんどなかったように思える。それをいいことに、あまり学校には立ち寄らず、文学はもちろんだが、映画好きな友人と一緒に、毎日のように映画館のはしごをし、その後は、友人の下宿に転がり込み、安酒を飲み交わし、映画論、文学論で、夜の更けるのも忘れた。
授業料は親に甘えたが、生活費は自分で稼がなければならなかったので、上京して2ヶ月ほどして、飲食店の皿洗いのアルバイトを始めた。そこで初めてお金を稼ぐという経験をしたが、いってみれば、これが人生最初の「キャリア」でもあったのだろうか。
そんな風にスタートした学生生活であったが、せっかく入学した大学は3年生まで進んだが、4年生で退学した。正確にいえば、「除籍」である。そして、そのまま東京で就職し、32歳の時、女房と2人の子どもを連れてふるさとへ帰り、縁あって現在の会社に転職した。その会社で後年、「キャリア」に関わる仕事をすることになるとは、まことに、まことに、「キャリア」とは、一筋縄では語れぬ、不思議なものである。
さて、これからも、もう少し、大学時代のことを振り返りたいと思う。
平成24年6月
株式会社カシヨキャリア開発センター
常務取締役 松井秀夫