小学生の頃は、当時のどの子供もそうであったように、野球が大好きだった。プロ野球でいえば当時最強球団であった西鉄ライオンズのファンで、「鉄腕稲尾」や「怪童中西」に憧れていた。中学生になると、その西鉄が野球賭博騒動の渦中に巻き込まれ、ただの弱小球団に落ちぶれてしまい、肩身の狭い思いをしたことを覚えている。今日まで50年の間、スポンサー企業は2社ほど代わっているが、「ライオンズフアン」であることは、今でも変わらない。現在の「ライオンズ」は、「西武」の名前を冠している。
東京時代には、幼い子どもをつれ、何度か所沢の西武球場に足を運んだ。また、長野に帰ってきてからも、オリンピックスタジアムで開催される西武ライオンズの公式ゲームに、2、3度出かけた。野球場での楽しさは、臨場感はもちろんだが、なんといっても、フアン同士の応援合戦ではないかと思う。ファンクラブのリーダーが打ち鳴らす笛・太鼓に合わせて、声を出し、手拍子をうつと、数千人、数万人のファンンの魂が一体となって球場にこだまし、雄雄しい気分で、仕事のうさを忘れることができた。
小学生の頃、休日などで誘い合う遊び友達がいないと、一人、小学校の校庭に出かけ、石段をキャッチャーに見立てて、暗くなるまでボールをぶつけていた。投げるたびに、「ストライク」、「ボール」と心に中でつぶやきながら、気分はすっかり「鉄腕稲尾」だった。中学の部活ではバスケットボールを選んだので、プロ野球はラジオかテレビで、その勝ち負けを気にするだけになったが、青年期、野球に限らず、もう少しスポーツに打ち込み、体力をつけておけば、こんなことはなかったと、思うような出来事がおきた。
2、3年前、孫が成長し、バッティングセンターに行きたいといいだした。軽い気持ちで何十年ぶりにバットを握り、スクリーンに映し出される「西武・松坂」が投げるボールに向かったが、20球中、バットにかすったのは、わずか、1、2球で、空振りをするたびに、孫は、キャッキャいいながら、喜んでいた。当の本人の番になると、半数以上はバットにあて、5,6球は、キーンと鋭い金属音を残して、ヒット性のあたりになったので、驚いた。さすがに格好がつかず、そのうちに打てるだろうとたかをくくり1時間ほど粘ったが、私のバットは空を切るばかりで、やがて体が悲鳴をあげはじめた。その日は家に帰り、今度はWiiで野球対戦したが、こちらでも1度でも勝てなかったので、さらに落ち込み、得意顔の孫を、少々、疎ましく思った…。
先日、この4月から4年生に進む孫が、春休みの時間つぶしに泊りがけで遊びに来てくれた。幼児から少年へと変貌する年頃なのか、すっかり落ち着いたものいいは、頼もしい。誘われるまま、(嫌な予感をしながら…)、バッティングセンターにでかけた。予想通り、私にとって、情勢はさらに悪化していた。ただ、むきになる私の姿をみて、「無理しないほうが、いいんじゃないの」と、腰痛もちの祖父をいたわってくれるほど、彼は、成長していた。
平成23年4月11日